女子サッカーの歴史と 浦和女子サッカーのあゆみ
(浦和レッズレディース誕生秘話)


サッカーなどフットボールと呼ばれているスポーツの起源は
一般的にイングランドで行われていたお祭り 隣あった町どおしで 詰め物をした袋を蹴りあい(首という説もあります)
それぞれ相手の町に作られたゴールに蹴りこんだほうが勝ち という町の住民みんなで参加するお祭りといわれています


    ということで この図をご覧ください     


とある 昔の書籍から見つけたのですが
このお祭りには女性も参加 というより女性だけでも行われていたこと 想像できる図になります

というわけで 競技スポーツのフットボールになる以前には 女性も行っていたのに
競技スポーツとなってからは男性だけのもの ということになってしまいました


古い歴史を誇るサッカーというスポーツですが 女性の参加というのは なかなか実現しませんでした
やっと女子のサッカーが認められたときにも
胸のトラップは禁止され 手を使ってボールをたたき落としてから・・・・とか
フィールドは狭くして8人制で・・・とか
男子と同じルールでの女子サッカーは 意外と歴史は浅いのです 



さて日本ではどうか というと
1966年 神戸に福住女子サッカースポーツ少年団 というのが誕生
続いて 同年 神戸女学院中等部にサッカー部が誕生
1967年3月19日 福住少年団 対 神戸女学院 の試合がおこなわれ
これが日本の女子サッカー 初めての試合といわれています

ところが 2011年香川県丸亀高等女学校の資料の中から
はかま姿でボールを追いかけている女生徒の写真が見つかり
裏面に “大正13年 運動会 フットボール” と書かれていました
本当のサッカーであったのかどうか 異論はあるのかもしれませんが
大正13年とは1924年 すでに女子サッカーの黎明期が始まっていたようです


さて 1960年代というと 少年団サッカーがあちこちで始まった時代です
小学校や幼稚園に サッカーをする少年たちが増えてきます
そしてそのお母さんたち 見よう見まねで “私たちもやってみようかしら”
ということになり ぽつぽつと  ママさんサッカーが始まります
とはいえ まだまだ練習場所や対戦相手があるわけでもなく
本格的なサッカーをしたい という女子には厳しい時代でした

1972年 サッカー協会で本格的な女子サッカーをめざして FCジンナンが立ち上がります
当時の教会は東京都渋谷区神南にあったからです
本当のサッカーをしたい という女子にその道を作ります

1976年には伊賀上野くノ一(現在も伊賀FCくノ一としてなでしこリーグで活動) 神戸FCレディース(TASAKIペルーレに繋がる) が誕生
1979年 清水第八(現在もチャレンジリーグで活動) が誕生 他にも次々に女子サッカーチームが誕生し
協会への登録は50チームを超えるほどになります
このころの女子サッカー界から 本田美登里 半田悦子 という名選手が育ちます 

1980年には 全日本女子サッカー選手権 が行われて ようやく全国大会を持てる規模になってきます
1981年 男子サッカーで日本をリードしてきた読売クラブにも 女子部を創設(現在の日テレベレーザに続く)
野田明美 大原智子など名選手が続々と育ってきます



さて 埼玉県ではどうだったかというと
同じようにママさんサッカーチームがいくつも誕生しましたが
なかなか対戦相手が見つからず 本格的サッカーはまだまだという状態

1979年10月14日 下落合FC(与野) 上落合FC(与野) 大宮早起きマザーズSC(大宮)
の3チームが集まりサッカー大会を開催します
その後 こんな大会がもっとあればいいのに・・・
ということで 協会の人も交えて相談 同年12月2日埼玉県女子サッカー大会を開催します
埼玉県初の公式戦が始まったわけです

1位 松山女子SC(東松山)
2位 大宮早起きマザーズSC(大宮)
3位 新座シューターズ(新座)
4位 上落合コスモス(与野)
5位 下落合FC(与野)

とはいっても 参加は上記5チームのみ
雨天のため 2回も延期されています  試合時間は10分ハーフ ということでしたから
当時の女子サッカーとはどんなものだったのか 想像できるでしょうか


そんな大会を横目で見ているしかなかった 当時の浦和市長中川健吉
浦和にも女子サッカーチームを作ろう と呼びかけます

この中川氏は埼玉サッカーを語る時には外せない 埼玉師範学校の出身
埼玉師範が全国制覇をした1937年には在籍中の選手でした
残念ながら大会メンバーにはなれず 名を残すことはできませんでしたが
サッカーを愛する気持ちは人一倍でした

1980年5月 呼びかけに応えて 本太レディース が誕生します
当時はまだ珍しかった夜間照明設備のある本太小学校 その校庭の誰もいなくなった夜間
浦和の女子サッカーが産声を上げます

元日本女子代表監督の鈴木保氏は当時の本太レディースを指導されていました

結成して半年 1980年11月 第二回埼玉県女子サッカー選手権では3位となります
この大会から ママさんの部 と ジュニアの部 に分かれて対戦が行われます
でもまだ15分ハーフの試合でした

参加チームは
松山女子SC 大宮早起きマザーズSC 新座シューターズ 上落合コスモス 下落合FC FC浦和コスモス
松山女子高サッカー部 本太レディース 北坂戸レディース 児玉キックレディース 春日部女子SC

順位  ママさんの部 ジュニアの部
1位 大宮マザーズSC 松山女子SC
2位 児玉キックレディース 春日部女子SC
3位 本太レディース 松山女子高サッカー部

この大会は3回目までは各チーム共同の主催
4回目からは県サッカー協会の主催となり 全日本女子サッカー選手権埼玉県予選 という位置づけとなります





男子サッカーではJリーグが始まります
Jリーグバブルの波に乗って とうとう女子サッカーでもLリーグが始まります
読売 清水 新光精機 日産 プリマハム 田崎真珠神戸 というチームが参加します

そんな中で本太レディースは Lリーグへの登竜門 チャレンジリーグに参加します
1992年は2位 1993年は優勝し 入れ替え戦への出場権を得るのですが
運良く(悪く?)日産FCレディースの廃部があり 入れ替え戦なしで昇格します

1994年はLリーグ初参戦でしたが 一勝もあげられず 降格してしまいます
一般人から中学生まで混成の市民クラブの限界だったのかもしれません

中心選手には井坂美都選手のような代表選手もいたのですが 中心選手は降格を機に他チームへ移籍
若い選手は力を入れ始めた学校の部活へと引き抜かれたり と
本太レディースの苦難の時代が始まります


1996年には入れ替え戦に出場するも 田崎ペルーレに敗れ
1997年には OKI FC WINDS との入れ替え戦に敗退
あと少しが届かない状況が続きます

1998年 そんなとき 悲劇がおこります
Lリーグに参入し 定着すること を志向する 浦和レイナス
あくまでも市民クラブにこだわる本太レディースに 分裂してしまいます


そんな頃の子供のサッカーを見てみます 
少年団サッカーが全盛になるにつれて そこに女子の姿を見かけることが多くなってきます
とはいえ 高学年になってくると いろいろとやりにくい面も出てきます
そんなわけで1997年 浦和の少年団に所属している女子選手
これを月に何度か集めて 合同練習会を開催するようにします
女子だけでのサッカーを 経験させてあげたい という思いからでした
1999年には 女子だけのチームとして登録 浦和ラッキーズが誕生します
2003年にはジュニアユースの中学生チームも作り中学生年代の受け皿としても活動を始めます
 現在もUー9,U−12,U−15のチームとして活動しています


話を戻します
浦和レイナスは1999年にLリーグに昇格
2001年はさいたまレイナスと名前を変更し 浦和レッズOBの田口禎則氏を監督に迎えて強化
2004年にはみごと Lリーグ優勝の栄冠を手にします

当時 焼き肉店を経営していた田口氏のところに レイナスの幹部が食事に訪問
 レイナス経営の厳しさを雑談しながら “ところで監督になってくれないか” と懇願

多忙だった田口氏を困惑させたのですが 結局監督を手弁当で 引き受けることになりました



ちょうどそんな時 浦和レッズでは ナビスコカップで優勝し その賞金の一部を地元還元の一環として
さいたま市内の中学校にサッカーボールを配ろうと手配します

ところが 市のほうから
“サッカーは男子のスポーツ サッカーボールではなく男子も女子も使えるものに変更してほしい
なぁんていわれてしまいます

それを聞いたレッズの当時の社長 犬飼基昭氏は激怒してしまいます
そんなバカなことがあるものか こんなことではいかん 女子サッカーをなんとかしなければ・・

と 思っていた矢先 さいたまレイナスから 工事中のレッズランド使用のお願い
そして できたら資金援助も・・・  と相談が持ちかけられます
そして 将来レッズが女子部を作ることがあれば 私どもと一緒に・・
なんていう話もでてきました

めぐりあわせの妙 タイミングが良かったのか 悪かったのか・・・
そんなら 今すぐやりましょう チーム全体を引き受けます

ということになって さいたまレイナスから経営母体の変更
サポーターもびっくり あれよあれよのうちに
浦和レッズの傘下として 浦和レッズレディースが誕生することになります

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